
――物語は、社会の“見えない敵”を可視化する装置である
多くの物語は、敵を「悪い人間」として描く。
冷酷な独裁者。
腐敗した権力者。
狂気の犯罪者。
主人公はその人物を倒し、喝采とカタルシスの中で物語は終わる。
だが、その世界は本当に救われただろうか。
悪役を一人排除しても、
同じ悲劇は、別の場所で、別の顔をして必ず再発する。
なぜなら、人間を縛っているのは「人」ではなく、構造だからだ。
📙誰も悪くないのに、必ず誰かが壊れる世界
現実の悲劇には、しばしば明確な悪人が存在しない。
- ルールに従っただけ
- 前例を踏襲しただけ
- 組織の判断に従っただけ
- 誰かが決めた仕組みに乗っただけ
誰も悪意を持っていない。
それでも、確実に犠牲者は生まれる。
正しさは積み重なり、暴力へ変質する。
責任は分散され、誰も引き受けなくなる。
判断は仕組みに委ねられ、人間は思考を手放す。
このとき支配しているのは、人間ではない。
責任を回避できてしまう構造そのものである。
悪は、顔を持たない。
📙悪役を倒す物語は、読者を“誤教育する”
単純な悪役物語は、気持ちがいい。
怒りの矛先も明確で、カタルシスも強い。
しかし同時に、読者に危険な世界モデルを植え付ける。
問題は、いつも「悪い誰か」が引き起こす
正義のヒーローがそれを倒せば世界は解決する
この認識は、現実理解を著しく歪める。
本当の社会問題は、
ほとんどが「構造」によって発生している。
そこから目を逸らし続ける物語は、
読者の思考力を奪い、世界を単純化し、判断を幼稚化させる。
娯楽であると同時に、認識汚染装置にもなり得る。
📙本当に描くべき敵は「責任回避構造」である
物語が本当に描くべき敵とは、
- 誰も止められない制度
- 判断を自動化する仕組み
- 善意を暴走させるルール
- 責任が霧散するシステム
こうした「責任回避構造」そのものである。
人は構造の中で、
「自分は悪くない」と信じながら、
他者を傷つけ、社会を壊し続ける。
ここに切り込まない限り、
物語は現実に対して無力であり続ける。
📙物語とは、構造を“見える化”する装置である
構造は、目に見えない。
だから人は、いつも人間を悪者にしたがる。
だが物語には、
この見えない構造を可視化できる力がある。
- なぜ善意が破壊に転ぶのか
- なぜ誰も責任を取らないのか
- なぜシステムは止まらないのか
- なぜ人は構造に従ってしまうのか
これらをドラマとして描いたとき、
読者の世界認識は一段深くなる。
物語は、社会理解のための認識装置である。
📙あなたは、誰を「敵」にするのか
あなたは、分かりやすい悪役を置くのか。
それとも、責任回避構造という“見えない敵”を描くのか。
前者は、簡単だ。
感情も動かしやすい。
売れやすくもある。
だが、それは思考を止める物語だ。
後者は、難しい。
設計力が要る。
構造理解が要る。
認識操作の知性が要る。
だが、そこに踏み込んだとき、
物語は世界の見え方を本当に更新する。
📙PIKOZOの立場
PIKOZOは、敵をこう定義する。
敵とは、人間ではない。
敵とは、責任を回避できてしまう構造である。
物語とは、その構造を暴き、
読者の認識を再設計するための装置である。
あなたは、
安心できる悪役物語を書くのか。
それとも、構造と戦う物語を書くのか。
その選択が、あなたの創作者としての“立場表明”になる。
